なんと答える?
「あなたは『日本人ですか?』と聞かれたら、なんと答える?」
この問いからこのコラムを始めてみたいと思います。
私の両親は、日本国籍で、私も日本国籍なので、間違いなく「はい、日本人です」と言えるかもしれない。
しかし、もし、「あなたは『アメラジアン』ですか?」と聞かれたら、間違いなく、「はい、そうです」と答えるだろう(「アメラジアン」はアメリカン+アジアンの合成語。これについては、別のコラムを準備中です。近日公開予定!)。
「アイデンティティは何?」と聞かれれば、自分にとって、母の故郷である「沖縄」がどのような位置付けなのかについて語るかもしれない。米兵と沖縄の祖母との間に生まれた母は子守唄として、わたしに「てぃんさぐぬ花」を歌ってくれました。
「田舎はどこですか?」と聞かれれば、わたしは「秋田の横手です。かまくらまつりをやるところで…、かまくらは水神様を祀るお祭りで…、かまくらの中って意外とあったかいんですよ!」と答えるかもしれない。
「『ハーフ』なの?」と聞かれれば、「いや、お母さんが『ハーフ』で、自分はクォーターです」と答える。
訝しげな表情で「どこかの血が混ざってる?」と聞かれれば、場合によっては、「よく気づきましたね!私の祖父はアメリカの人です」と答えるだろう(「血」に対する質問には答えられていないですが笑)。
私の名前をみて、「沖縄の方ですか?」と聞かれる場合もあって、その場合は余計に複雑に答えてしまうときがあります笑。
「この『下地』という姓は、私のパートナーの姓なんです。私のパートナーの父が宮古島出身です」と。だけれど、「沖縄の方ですか?」という問いが、<名前>だけではなく、自分自身の<ルーツ>に関して聞かれているような気もして、場合によっては、「私の母親も実は沖縄出身なんですよ。ちなみに母の旧性は金城です」なんで、余計な追加情報を言ってしまうことがある。
「沖縄ハーフだね」「東北の人だから肌が白いのね!」「沖縄の人には見えないね~」「やっぱりクォーターだよね」「思いっきり日本人顔だよね」「私もハーフだけど、自分よりハーフっぽいよ」…
カテゴリーを挙げれば、「クォーター」、「東北(秋田)の人」、「アメラジアン」、「うちなーんちゅ(沖縄)」、「アメリカ」、「基地」、「ハーフ」、「混血」、「ミックス」、「海外ルーツ」…、などなどいろいろと出てきてしまう。そして、そのどれもが私に関係があり、もしかしたらどれもしっくりと私の言い表すカテゴリーではないのかもしれない。怒った時・嫌な思いをした時に、つい口を突いて出る言葉は、「あぎじゃびよー」という母の沖縄の言葉であり、「あんや、まんずすがだねごと」という祖母の秋田の言葉だったりする。
こういったことからか、いつからかどこか一つの「カテゴリー」に当てはめられる問いかけに対して、良いか悪いか、ちょっと「うーんと、」という間をおいてしまうようになりました。
しかし、アイデンティティは、ひとつに選ぶ必要があるのだろうか。ひとつに絞る必要があるのでしょうか。
これもまた、私の中にある一つの問いかけです。
<知る>ということについて。
こういういくつものカテゴリーは、相当に悩みの種となるときがあります。しかし、このカテゴリーが無くなれば良いのかといえば、簡単にはそうとはいえないのかもしれません。
たとえば、自分とは”違う”と感じるカテゴリーの人について、<知る>ということを考えてみましょう。
直接出会うことを通して知るという方法のほかに、未知なる集団について理解するためには「定義」や「情報」が必要となってきます。そして、その「定義」や「情報」から、未知なる集団に対してある種のイメージがつくられます。
しかし、このとき注意しなければならないのは、その定義や情報などが、「全て当てはまる」とか、「そのカテゴリーの人はみんな同じ」と思わないようにしなければならないことです。
たとえば、「ハーフ」という言葉についても、定義や情報が多様で、その境界線は曖昧かつ流動的です。それゆえに、特定の定義や情報やイメージなどはそのカテゴリーの誰にでもあてはまるわけではありません。そして、なによりも、その本人が自分自身をどのように捉えているかは、それぞれで違っているかもしれません。
名指しされる人が、「ハーフ」に結びつく憧れのイメージに対して「私は違う」と思う人もいるかもしれないし、「ハーフ」ということばに半人前というニュアンスを感じたり、「ハーフはみんな差別に苦しんでいる」というイメージに違和感を覚えるひともいるだろう。特定の定義やカテゴリーに相手を押し込めることは時に暴力となりうる。
誰かを<知る>というとき、その人物の情報やルーツにかかわる定義を確認すること自体はとても重要なことだと思う。しかし、あくまでも相手が自らをどう定義づけているかを受け止め、自分の中で作り上げたイメージを揺るがせる余裕を持つ、ということが必要になってくるのではないでしょうか。
フランツ・ファノンは、「他者」が出会うという場面において、イメージや嫌悪感、優越感や劣等感などでがんじがらめになった状況を見て、以下のように述べている。
優越性?劣等性? どうしてもっと単純に、他者に触れ、他者を感じ、みずからに他者を啓示しようと試みないのだろうか? (ファノン1998: p250)
近年では「ハーフ」や海外ルーツの人々について様々な定義や情報などが増えてきています。しかし、定義や情報を知ることと同時に、作られたイメージに自覚的になること、相手の話に耳を傾けること、相手を受け止めることで自分の中のイメージが崩されてしまうことを恐れないこと、なども必要であると感じます。
人と人が出会うという瞬間は非常に緊張感があり、怖さを感じる場合さえあります。定義や情報などで簡単に相手のことを理解できるわけではないからです。しかし、簡単ではないからこそ、お互いに少しずつ理解し合えたり、つながりを感じられたりするときに喜びを感じるのではないでしょうか。
いくつかのカテゴリー
カテゴリーの捉え方は、人によって違います。そして、同じカテゴリーに属するとされるひとでも、その捉え方は異なるでしょう。また、他者から名指されるカテゴリーとは異なるカテゴリーを主張する人もいます。
このウェブサイトでも、それぞれが、自分自身の捉え方で、アイデンティティや、カテゴリーを語るでしょう。そんな、それぞれの、捉え方や考え方を、自由に、この日本社会の中で対話していけたらと思いこのサイトを立ち上げました。
プロジェクト・メンバーも、それぞれが様々なカテゴリーに対して、それぞれの距離感や価値観をもっています。だからこそ、そんな「違い」や、「思い」について語り合いながら、ポコポコと発信を進めている日々が、なんだかとても充実しています。
海外ルーツだけではない。他にもいくつかのカテゴリーを抱えながらこれからも考えていきたいと思います。
ライター:下地ローレンス吉孝
Twitter: @lawrenceyoshy
【参考文献】
フランツ・ファノン, 1998 ,『黒い皮膚、白い仮面』みすず書房(海老坂武訳)
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