肌色の話がTwitterで話題になってました。
肌色のクレヨンなり絵具なりが、たとえば「ペールピンク」のような名前に置き換えられていくことに違和感をもつ方のツイートが発端のようです。
いわく、肌色という言葉が使えなくなるのは「言葉狩り」にほかならず、よろしくないとのことだそうです。
「日本人」の肌色の「平均値」がその色なのだから、肌色のままでいいじゃないか、と。
いいじゃないか、と言われましても、多様である身体形質(肌の色)を1つに絞っている段階で特段いいことはないのですが、ここで話を終わらせず、先に進みます。
まず、「言葉狩り」って言葉を使いたがる方々が「言葉をなくしても差別はなくならない」と言いがちであることを、少し立ち止まって考えたいと思います。
この言い回しは前々から不思議だなぁと思っておりました。
仮に「言葉をなくしても差別はなくならない」のだとしても、それは別に
「あなたが多数派の常識に基づいた一見すると中立に見えるが実は少数派を周縁化する言葉や差別語を振り回してもよい理由」にはならない、ですよね。。
そう、肌色って言葉は、特定の肌の色を中心化する一方で、ほかの肌の色を周縁に追いやってしまう言葉なのですよね。
「平均値」なるものがどうであれ、中心化・周縁化してしまう言葉なので、べつに「よい」ことにはなりません。
たぶん「よい」といえるのは、周縁化されるリスクや経験がない/少ない/そういうものだと諦めつつ受け入れている立場に、その人が立っているからでしょう。
ところで、ここまで書いて気づいたのですが、「言葉狩り」ってインパクトあるわりにすごく雑駁な言葉なので、この言葉つかうひとの文章、あまり読まないようにしてる気がしてきました。
理由はシンプルで、
だいたい「差別や偏見を指摘する人が差別者」「これだから人権はうんぬん」みたいな、謎理論や雑駁なオチになりがちなのですよね。
いつか・どこかで・誰かが発してきた謎理論やオチとかぶっているので、読んでておもしろくない傾向が高い気がしております(じゅりあん調べ)。
あと、当該のツイートをされている方および賛同者の皆さんが、「肌色って『普通』な言葉がなくなるのさみしい、言葉狩りけしからん」とおっしゃってること自体は、けっこう興味深いと思っています。
なぜなら、
少数派の問題状況や多数派の常識に依拠した言葉に無頓着でいられる、というマジョリティの特権が動揺しているからこそ、出てくる言葉なのですよね。
動揺、どんとこい。
それから、常々散見される「行き過ぎた配慮が文化を窒息させる」って表現も、なかなか趣深いと思っています。
「行き過ぎた多数派中心主義が文化を窒息させてきた可能性」をまったく気にしていないところとか、そもそも文化ってそーゆーのだっけ、とか。
こういう言葉を簡単に発してしまう方が、教育現場にかかわっておられると聞くにつれ、目の前にいる子どもたちのこと、ちゃんと考えてるのかすごく心配になってきます。
同時に、「肌色」は授業のテーマにピッタリともおっしゃられているのですが、このテーマを扱うには、自分のマジョリティとしての特権性を何度でも振り返る必要があるでしょうし、そのためには、うんと学びが必要でしょう。
少なくとも「言葉狩り」という言葉を、そこでチョイスできてしまえる、自分の立ち位置が、なにの中心化・周縁化に加担する立場なのかを、きちんと言語化できてないからでないと、「肌色」をテーマにするのは難しいのではないか、と思いました。
そういう僕も、勉強中の身です。 わからないことがある。
いつのまにかスルーしていることがあるかもしれない。だから、勉強しながら、調査に協力していただきながら、講義をしたり、論文や書籍を書いたりしています。
いっしょに学びませんか?
「言葉狩り」と、つい口にしてしまうその前に。
ライター:ケイン樹里安
※note ケイン樹里安「肌色と言葉狩り」(2019/10/16 13:58)より転載
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