インタビュー企画の第一弾は、当サイトHafu Talkのプロジェクトメンバーであるセシリア久子へのインタビューです!
セシリア久子さんは、1983年にボリビアで、日系一世の父とボリビア人の母との間に生まれました。そして、6歳のころ日本にやって来ました。お父さんからは当初は「2、3年でボリビアに帰る」と言われていたといいます。(※「日系」の歴史については別のコラムで書きたいと思います。)
6歳で日本へ、そして小学校へ入学
ー入学式の当初は、日本語全然話せなかったのかな?
うん、しゃべれなかった。名札とか書類とか、多分そのときにお父さんが話聞いたんだと思うけど。多分そのとき、お父さんも日本語があんまり上手じゃなかったから、「名札」とかもわかんなくて。ただ、近所の店に学校の一式が揃うところがあるから、そこに行って体操着とかも全部揃えたんだと思う。「ふでばこ」とかも、わかんないじゃん。お父さんも「『ふでばこ』ってなんだっけね?」みたいになってて。「ランドセル」も。なんか急いで買いに行った記憶がある。
ー小学校でしか使わない言葉とかあるもんね、「うわばき」とか、「校帽(こうぼう)」とか、「ぜっけん」とか。日常では使わないけど、小学校では使うみたいな。
そうそうそう。だから、入学式の時とりあえず、うわばき履いてなかったんだよね。みんな持ってきてたんだけど、私だけスリッパだった。
クラスに行っても、黒板にローマ字でなんか読み方を書いてくれてたみたいなんだけど、「Nittyoku」とか、読めてもその言葉の意味がわからないから。
クラスに行っても何話してるかわかんないから、私もドアの近くでお母さんたちを待ちながら半べそかいてた。一学期の時は友達もいなかったけど、お母さんにも心配かけないように、一緒に遊んでるって言ってた。
でも友達の一人がアプローチしてくれて、帰り道ずっと待ち伏せしてくれて一緒に帰ってくれてたんだ。日本語で話してくれて、私とお母さんも何言ってるか最初わからなかったけど、ずっと話しかけてくれてた。その子のお母さんも、家にきて、手取り足取りいろいろなことを教えてくれて。
一年生の終わりぐらいには喋れるようになってきたと思う。
ーなんか、小学校で「ハーフ」ってことでなんか言われたりした?
なんかね。「ハーフ」っていう認識がみんなのなかになくて。完全に日本語も話せなかったし、髪の毛も茶色かったし、風貌も違ってたし。もう、みんなのなかでは、「ガイジン」だったんだよね。だから、よく、「ガイジン帰れ」とか…。
だから、一番最初にわかった日本語が、「バカ」と「ガイジン」。それを一番言われたから、お母さんに、(スペイン語で)「『バカ』って言われるけど、何?」って聞いて、お母さんが辞書で調べて、その意味を調べて泣いたっていう。だから、「ガイジン」っていう言葉を最初の方に覚えたと思う。お母さんも、その意味をやんわりと教えてくれて、「でも、あなたは素敵な子、気にしないで」って言ってくれて。
何でもかんでも「外国」に結び付けられたかな。わたし成長が早くて生理が来たときも、先生とか友達から「外国の血が入ってるからだね」って言われたり。トラウマになるよ。
でも、日本語わかんなくてもなんとかやってたと思う。鼻水おもいっきり垂らしてる男の子がいて、その子すごい、「ガイジン、ガイジン」っていじめてくる子だったんだけど、その子が、なんか必死に鼻水を隠してたの。本当にすごかったんだよ、横からも出てて(笑)。テッシュ持ってなかったみたいだから。それで、私がテッシュを無言で渡したら、それから私のこといじめなくなった(笑)。
「ガイジン」ってすごい言ってくる子もいたけど、すごい守ってくれる子もいて。なんか、親から「『ガイジン』って言うのはよくないことだよ」って親からいわれて、いじめてくる子に「ガイジンって言っちゃいけないんだよ!」って歯向かってくれる子もいたから。って感じです。
ー中学校の時はどうだった?
中学校の時も、地毛が茶色いから、各先生一人一人にチェックされて。あと南米で、小さい頃から耳にピアスの穴あいてたから…。で、学年ごとに先生が変わるじゃん。それで新しいクラスになってから、各先生に「日本語わかる?」って。一見すると、不良の子って感じで見られちゃうんだよね。
あと、下の学年にブラジル人の子達が入ってきて。その子達が日本語全然分からなかったんだけど、入学してから学校で泣いちゃって。それで、私がアナウンスで呼び出されて、通訳してくれって。言葉も違うんだけど、とりあえず、「なんで泣いてるの?」って聞いて。
自分で「ハーフ」って認識し始めたのは高校からかな。ずっと「ガイジン」だったから。
(高校を卒業後、栃木でアクセサリーを扱うお店で仕事を始めた。成人してからのエピソードを伺ってみた。)
なんか、お客さんから急に「なにじん?」とか言われたこともある。あとは、お店じゃないんだけど、普通にエレベーターとか乗ってたときに、おじさんに「どこのお店?」って聞かれて。「ん?」と思って。「あれでしょ?スナックとかパブにいるんでしょ?」って言われて。「は?」と思って。私は、「日本人です」って言って急いでエレベーターを出て。
あと、「どこ混ざってんの?」とか。「あんたほら、あれ、目が違うね!」とか。「どこ?」とか、そういうこと聞かれたりしたかな。「混血?」とかも聞かれた。いまでも言われるよ。この前も言われたもん。昔は、先生からも「あいのこ?」とか聞かれたことあるよ。だから、逆に「はい、私ボリビアなんで!」ってこっちから言っちゃうときあるかな。「スペイン語喋れるの?喋って」とかも言われる。
職場じゃなくても、普段生活しててもいろいろ感じることがあるんだね。
なんかね、お店に入るとマークされるとかあったよ。お店に対するイメージはあんまり良くない。店員さんがついてくるんだよね、パクられないように。そして、だいたいお母さんが触った後に、その商品の個数を数えたりするんだよね。デパートとかでも。お父さんとお母さんと家族四人でお店にはいったときも、店員さんからマークされてて、私が気づいてお父さんに言ったら、お父さんほんとそういうの嫌だから、「もう帰ろう」って。でも、お母さんは買い物したいって言ってたんだけど、「買い物はもういい」って帰ったりとかしたかな。
駅でも日本語で「どこの線で乗り換えですか?」とか聞くと、駅員さんから「Change the Hanzoumon Sen」とかって言われたりして、「ありがとうございますっ!」って返事したりとか。まぁ、人がたくさんいるから瞬時に判断しなきゃいけないんだろうけど、日本語で話しかけてるのに英語で帰ってきちゃうこともあるかも。
あと、自転車に乗ってたときに女性の警察官に止められたこともある。お姉さんに、「あ、綺麗な目されてますね!」って言われて、「外国人登録証お持ちですか?」って言われて。もうめんどくさいなとおもって。免許証見せて。そしたら、本籍書いてあったから、「あー、沖縄!」って言われて。別の警察官のおじさんのときは、「がいろく(外国人登録証)持ってる?」って聞かれた。多分、日本語で受け答えするから、「パスポート」じゃなくて「外国人登録証」なんだろうね。
(インタビューおわり)
セシリア久子さんはよく「何か言われても言い返して来た」というが、このインタビュー原稿の確認をもらいながら話していると、ふと、「わたし、日本に来て最初にすごく仲良くしてくれて、面倒見てくれた○○ちゃんいなかったら、本当にどうなってたかわからない」と話してくれた。たとえ日本語がわからなくても、日本語で必死に説明してくれた小学一年の女の子の存在は、ボリビアという地球の反対側から日本に来たセシリア久子さんにとって、本当に大きな存在であっただろう。
日本社会で暮らす一人一人への想像力
セシリア久子さんはときに笑いながら、ときに深刻な表情を浮かべながら、自分自身のストーリーを語ってくださいました。
このインタビューからもわかるように、日本ではまだまだ「日本人」と「外国人」というカテゴリーと、そこに結びつく外見や言語・文化のイメージが非常に強いことがわかります。そして、それらが単に「イメージ」なのではなく、「ハーフ」や海外ルーツの人々の日常生活のあらゆる場面で、<具体的な効果>を発揮してしまうということです。それが、しばしば、社会での生きづらさにつながってしまうのではないでしょうか。
セシリア久子さん一人の経験からみても、言葉の問題、見た目の問題、文化や習慣の問題、など、日本社会にある様々な「壁」が浮かび上がって来ます。
今月5月20日に発行された移民政策学会の『移民政策研究』の中で、是川夕氏の論文によれば、日本国内における「国際児」の人口は2015年10月1日の時点で84万7173人にのぼると推計されるといいます(この場合の「国際児」の定義は、「父母のいずれかが外国籍である」こと)。
そして、この数値に外国籍人口や帰化人口を合算すると、「移民的背景を持つ人口」は同じ2015年10月時点で332万5405人であると推計されています。さらに是川氏は、将来的にこの人口は増加し、2065年にはその数1075万6724人、総人口の12.0%にのぼると予測しています。このように「移民的背景を持つ人口」が12%という推計値は、「現在の欧米の主要国の下限にほぼ等しい水準」であるといい、「『移民の時代—the Age of Migration』において日本は何ら例外的な存在ではないことが明らかになったのである」と述べています(是川2018:19-24)。
このような日本の将来像を想像したとき、海外にルーツのある人々が生きづらさを覚える社会を、少しずつでも変えていく必要があるのではないでしょうか。
すでに、多様な日本社会の中であるのに、現状ではまだまだ「日本人」か「外国人」かという二者択一の強力なイメージが浸透しており、多様な人々への想像力が不足しているのが現実です。
望月優大さんが編集、田中宝紀さんが執筆されたウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』の記事でも、海外ルーツの子ども達について以下のような点が指摘されています。
現在はこうした子どもたちに適切な教育機会を提供できる環境は官民合わせてもわずかであり、地域間の格差も深刻です。日本語がわからないまま「放置」状態で学校に通う子どもも少なくなく、日本人の子どもの高校進学率が100%近い現在においてもなお、地域や環境によっては海外ルーツの子どもの進学率は60%前後に留まるとみられています。
日本政府は、日本で就労が可能な年数や家族の滞在に制限のある在留資格による、一時的な外国人労働者の受け入れを広げつつあります。外国人がこれだけ増えているにも関わらず、そして彼らの社会生活上に多くの問題が発生しているにも関わらず、「日本に移民政策は無い」という姿勢を貫こうとしています。
人の移動はそこまで正確にコントロールできるものではありません。たとえ留学生として来日したとしても、日本で恋をして、家族を築き、定住する、そういうことも大いにありえます。「いつか帰るのだから」ではなく、たとえ一時的であったとしても、日本で働き、税金を納め、暮らしを営む、そんな私たちの社会の一員として、彼らと共に生きることを考えるべきときが来ているのではないでしょうか。
多様性を受けとめられる状態、ありのままで生きられる社会は、日本社会に生きる全ての人にとって生きやすい社会なのではないでしょうか。
今後も引き続き、コラムやインタビューなどで、多様な日本社会について語り合いの場を広げていければと思います!
インタビュー協力:セシリア久子
ライター:下地 ローレンス吉孝
【参考文献】
ウェブマガジン『日本複雑紀行』はこちら
是川夕, 2018, 「日本における国際人口移動転換とその中長期的展望——日本特殊論を超えて」移民政策学会『移民政策研究』(10): 13-28.
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