こんにちは。今回のコラムは、バーヌさんからの投稿です。ぜひご一読下さい。
HAFU TALK編集部
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衝撃の事件
令和の時代がいよいよ近づいてきた日本の平成31年4月21日にTwitter上で目にした衝撃の事件。それはスリランカで起きた連続爆破。
スリランカでは仏教徒が大多数でありながらもイスラーム教徒やキリスト教徒など様々な宗教を持った人々が共に暮らしています。また、スリランカという国の何よりも特徴的なのは多民族社会であるということ。簡単に言えば、多数派シンハラ人(シンハラ語を話す仏教徒orキリスト教徒)、少数派のタミル人(タミル語を話すヒンズー教徒orキリスト教徒)とムーア人(タミル語を話すイスラーム教徒)といった構成になっています。
事件が起きた日はイースター(復活祭)であったため多くのクリスチャン(キリスト教徒)が礼拝をするため教会に訪れていました。残酷にもそれを狙った犯行です。複数の教会や高級ホテルで次々と爆発が起こり、数百人もの人々が負傷し、死者数も三桁にのぼりました。
このニュースは瞬く間に世界中に広まり、日本でもすぐに取り上げられました。実際に、事件が起きた後、なぜか日本にいる私を心配してメッセージをくれた友人が数人いたので日本でもこの事件のことが多少なりとも人々に浸透していたのでしょう。
事件の背景とわたしの経験
ご存知の方もいると思いますが、スリランカではつい最近の2009年まで約25年間、宗教や民族問題などから政府と反政府武装組織による内戦が続いていました。多数派の仏教徒シンハラ人と少数派のヒンズー教徒タミル人の間の過激な民族紛争。内戦終結後、スリランカは観光業に力を入れて今では日本人にも人気の旅行スポットになりました。しかし、現在でもスリランカの情勢が完全に平和になったとは言い切れません。
私自身そのことを身をもって知ることになりました。去年の3月、大学の春休みに7年ぶりにスリランカに行こうとチケットを買った矢先の出来事です。仏教徒シンハラ人過激派による反イスラーム暴動が起き、ムスリム(イスラーム教徒)が経営する店が燃やされたり、街でムスリムに集団で暴行を加えたり、といったことが相次いで起こりました。危険すぎてとても行こうとは思えず、久しぶりの訪問を惜しくも断念しました。
スリランカは日本と同じく島国でありますが、日本と比べるとより多文化多宗教国家です。しかし、内戦に続きこのような事件が起きていることからもわかるように、悲しいことに異民族間であまり共生はできていないように思います。もちろんこの問題は民族や宗教の違いのみに起因するわけではなく、様々な歴史的背景や社会構造(貧困や格差、差別)も絡んでいることでしょう。
冒頭で取り上げた先日の連続爆破事件の犯行は、イスラーム過激派によるものだと報道されています。それも、犯人は皆、高学歴で裕福なエリートだそうです。そのようなエリートたちが一体いかなる動機があってこんな残酷ことをしたのかはわかりません。ただ、スリランカにおいてマイノリティーであるムスリムのさらにほんの一部の人々の行動によって、穏健なムスリムもまた、他の宗教の人々から厳しい視線を向けられるようになってしまったのは事実です。同じ神を信じる者として彼らのしたことを自分の罪であるかのように感じ心が痛くなるような思いと、たくさんの尊い命を奪った彼らの残虐な行為に激しい怒りを覚えます。
他者からの視線
このような「当事者」としての心情とは別に、海外での事件が日本での生活に大きな影響を及ぼすことがあります。それは、日々感じる他者からの視線に関して、です。
私はこれまで自分がいわゆる「ハーフ」であることを気負いすることなく、時には堂々と他の人に伝えてきました。しかし、一方で9.11事件やISIS(イスラム国)と言われるグループが出現して以来、自分のことを「ムスリム」であるとは大きな声で言えなくなりました。
それは今でも変わらず、ムスリムの女性は着けることが推奨されているヒジャーブ(髪を覆い隠すための布)も人目を気にしてしまい、なかなか自信を持って被ることができません。それでもいつかは完全にヒジャービー(ヒジャーブをしている女性)になりたいとプライベートでときどき着けて外出したりしています。けれども、このスリランカで起きた連続爆破事件によってムスリムであると視覚的にはっきりわかるヒジャーブはますます着けづらくなりました。
どんな反応をされるのかヒヤヒヤするし、非難されたり罵倒されたりしたらたまったものではありません(実際にそのような経験をした人のことをしばしば耳にします)。日本社会は無宗教だと考える人が多いため異教徒に対して攻撃することはあまりありませんが、変わった人を見るような視線を無意識に向けてしまっている人は多いのではないでしょうか。
私自身もその視線を日常の中で浴びせられているうちのひとりです。そして、このような視線は今回のような事件が起こるたびに、ネガティヴな報道によって「イスラーム教徒=過激派」という先入観につながるのではないかという心配があります。
私はこの先入観のみで区分けされるカテゴリー化にとても恐怖を感じます。私が誰かに「ムスリム」だと名乗ったとき、相手のイスラーム教徒に対するイメージによって私は「過激派ムスリム」と「穏健派ムスリム」のどちらにもなる可能性があるからです。言い換えるとそれは、自分の意思に関係なく他者の決めつけでカテゴリー化されてしまう、という恐怖です。
多様性を知ることで決めつけを避ける
では、このような決めつけはどのようにして和らげることができるのでしょうか。一枚岩的にとらえられている人々の多様性を知ることは、決めつけによる偏見をすこし解きほぐしてくれるかもしれません。
これは東京のとあるマスジド(モスク)で、とりわけムスリムが多く集まる金曜日に、ある先生が行ったお話です。
「スリランカで起きた同時爆破テロ、過激派組織やイスラム国のこのような行為はイスラームの理念・理想には全くそぐわない。また、イスラーム法では自殺も禁じられるため、自爆すること自体、禁じられています。あまり知られていないハディース(言行録)ですが、以下のような言葉が収録されています。『実にアッラー(唯一の神)にとっての最大の敵はハラーム・マスジド(メッカのモスク)で殺人を犯す者、戦いを仕掛けなかった相手と戦う者、そしてイスラーム以前の闇の時代に蔓延っていたような敵意や恨みを持って殺害する者である』そしてイスラームの訓えのなかには、悪に対しては悪で同様にやり返すのではなく、善をもって応えるべきというものがあります。憎しみに対して愛情でやり返す、そして憎悪の連鎖をそこで止める、これこそが現世と来世での幸福の享受を狙う、イスラームの理念なのです。」
この言葉からイスラム過激派と穏健なムスリムではクルアーン(コーラン)に対する解釈が異なっていることがわかるでしょう。しかしこのような違いはムスリムじゃない人にとっては見えにくいため、過激派と穏健派を「イスラーム教徒」という同じカテゴリーに当てはめて捉えてしまう傾向があるのかもしれません。
同じ人間、というカテゴリー化
先入観に基づく安直なカテゴリー化に比べると、より深く知識を得ることでカテゴリー内の多様性を知ることは、偏見や差別の解消に繋がりやすいのだと思います。
と同時に、幼い頃の記憶を辿ると、「過激派」「穏健派」のように単にカテゴリーを増やすのではなく、「同じ人間」というもっと大きなカテゴリーでわたしたちみんなのことを捉えることに大きな可能性があるのではないか、そう思えてきます。
あれは2004年、ちょうど私が小学2年生の夏休みにスリランカの海岸部ニガンボにあるホテルにいたときでした。インドネシアのスマトラ島沖で大地震が発生し、海に囲まれた島スリランカでは、3万5千人以上のの尊い命が津波によって奪われました。私はホテルの確か3階か4階におり、怪我もなく無事でしたが、1階部分は水浸しになりました。
すぐに父の実家がある中心部のキャンディという町に逃げましたが、その途中で車から見た風景は今でも忘れられません。次々と迫りくる大きな波に、流されていく家や車、必死で逃げる人々、幼いながらにも神様の存在を強く感じた出来事でした。
津波が起きた直後のスリランカの旅はなんとも言えないものでしたが、あの時見た光景と同じように忘れられないものがもうひとつあります。それは今でも耳に残るくらい当時テレビやラジオで流され、毎日聴いていた歌です。津波の被害によって崩壊した美しい国スリランカをみんなで立て直そうと国民に呼びかける歌でした(文末の動画参照)。
津波が起きたとき、たとえその人が異民族で異教徒であろうと、多くの人々がお互いに手を差し伸べ合っていたように感じます。私の父は地元でそれなりに知名度が高いのでブディスト(仏教徒)やクリスチャンの知り合いもたくさんいました。うっすらとした記憶になりますが、お宅の家は大丈夫か、家族はみんな無事だったか、というように相手を気にかけ思いやる姿があちこちにありました。だからこそ、今回の連続爆破事件によってまたスリランカで暮らす多民族多宗教の人々の間に大きなヒビが入ってしまったことが、とても残念でなりません。
大いなる自然の前の「同じ人間」としての私たち
私たち人間は自然の驚異、つまり神を信じる者たちにとって災害という形で現れた神の力を目の当たりにしなければ、はたまた実際に身をもって経験しなければ隣にいる人を自分と同じ人間なのだと気づくことができないのでしょうか?
そしてその大いなる自然の力、神の力を感じ取ることができる出来事が定期的に起こらないと、私たち人間は皆平等であると一度気づいたことを忘れてしまうのでしょうか?
目の前の他者は確かに自分とは同じものを信じているわけではなかったり、同じ暮らしをしているわけではなかったり、同じものを食べているわけではないのかもしれません。
しかし、だからといって「スリランカ・ハーフだからスリランカ人とほぼ同じにちがいない」「ムスリムだから自爆テロを推奨しているにちがいない」などと「この人は○○だから○○にちがいない」という風に何の根拠をなく勝手な自己判断でカテゴリー化しステレオタイプに落とし込むのはちょっと視野が狭すぎるように思いませんか?
カテゴリー化された方は「勝手に決めつけんといてや」って思うのはもちろん当たり前なわけで。ある意味でこのスリランカで起きた事件は現在、移民が増え続けている日本社会に生きる私たちに「共生」について考えさせられるきっかけをもたらしているのかもしれません。
目の前の相手に対して自分と異なった人というカテゴリーに最初から当てはめてしまうのではなく、自分と共通している部分をまず見つけ、そこから自分と他者との違いを理解しようと試みる力を一人ひとりが養っていくことが必要だと私は強く思います。
P.S
スリランカの事件で亡くなられた方々への深い追悼の意を表すとともに一日も早く平穏な日々が再び訪れることを心よりお祈りいたしております。アーミーン
スリランカの津波復興ソング
バーヌ
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