サリヴァン『精神病理学私記』(日本評論社, 2019年)の出版を記念して、本書の翻訳者でもあり今年2月にインタビューさせていただいた阿部大樹(あべ・だいじゅ)さんと、ケイン樹里安による対談です。移民、精神科医、「ハーフ」、当事者性…。精神科医、翻訳者、社会学者。業種や領域の異なる二人の語りから、さまざまなテーマが浮かび上がります。
1.サリヴァン-アイルランド系移民として、精神科医として
司会 ハリー・スタック・サリヴァン—名前は知っているんだけど、どんな人なんだろうという方もいらっしゃると思うので、阿部先生、最初にちょっと紹介いただいていいですか?
阿部 はい、サリヴァンは戦前アメリカの精神科医です。彼自身が同性愛者であったり、おそらくは統合失調症で2年間の入院をしていたりと、かなり生きづらかっただろう人生を送った人でもあります。そして彼は、移民の子でもありました。
この『精神病理学私記』(日本評論者, 2019年)にはたくさんの匿名の症例が出てくるんですが、その殆どが彼自身が経験したことだと言われています。だから、学術書なのに“personal”、つまり「私記」となっているんですね。
そのサリヴァンが生きた1930年代のシカゴというのが、ちょうど現代の社会学が産声をあげたところなんです。アメリカの大都市、重工業が発展して、大規模な移民流入があった時代、急速にスラムが形成されて、禁酒法とアル・カポネ…そういう街で、そのスラムとか移民というのをテーマにしてシカゴ学派の社会学というのが生れて来ました。
サリヴァンの『私記』にもその辺りの話がたくさん出てくるけど、社会学者のケインさんはどう読むのかなと思って、お呼びしました。
ケイン なるほど、そういうことだったのか。
一同 笑
司会 サリヴァンって、社会学ではよく扱われるんですか?
ケイン いや、名前をふわっと知っていただけで、はっきりと認識したのは、阿部さんと大阪で二人で昼間っからビール飲んでたときでしたね。その時に「サリヴァンってね」って話になって、「へぇ、そういう人だったんだ~」みたいな。
サリヴァンってのはアイルランド系の苗字なんですけど、当時のアイルランド系というのは「黒人」と並んで被差別人種の扱いをされていますよね。いろいろな経緯があったんですけど。実は僕もルーツはアイルランドなんですよ。父親がアイルランド系アメリカ人で。
でもアイルランド系移民の歴史って面白くて、徹底的に差別された時代状況もある一方で、20世紀にアメリカに移民した父方の家系だと、よそ者カテゴリーとして、イギリスでもアメリカに渡ってからも弁護士になる人が多かったり。その場の利害関係からは少し離れた存在として、中立的な第三者としてサバイヴする道をとったわけですね。
シカゴ学派に影響を与えたゲオルグ・ジンメルという社会学者がいるんですが、彼は、よそ者の方が金融業や商人に向いてるよ、というようなことを書いていてるんです。よそ者は、利害関係が生じない存在としてみなされるから。
阿部 精神科医っていうのも、社会の中では「よそ者の職業」かもしれないですね。
患者さんからお金をもらっている一方で、精神病院がほとんど収容施設のようになっていることもあるわけで。賄賂をもらって誰々を精神病院になんてことがあれば、一瞬で社会が崩壊しちゃう。すっごく第三者性が求められる。
司会 それを聞くと、阿部先生は天職っていう感じがしますよね。
ケイン そうですね。
阿部 (笑)僕は父親はフランス人で母親は日本人で、出身は新潟なんだけど東京で研修医になって、そこからさらに今は川崎でやってるから、たしかに「よそ者」ですね。
サリヴァンも言っているように、精神科医の仕事は、コミュニティにいられなくなった人をコミュニティに帰していく仕事なんですよね。でも一方で、精神科医が「ザ・常識人」みたいな人格者だと、常識から外れた人たちを常識によって撥ねつけるみたいになってしまって、うまくない。
ケイン 精神科医がマージナルマン(注)であるってことですね。そういう意味では、社会学者も変わっているくらいでちょうどいいのかもしれない。
2.社会学と「中立性」
阿部 前から聞きたいと思っていたんだけど、社会学ってどの程度まで客観的なのかな。
社会学者って個性的と言うか、とにかくキャラが立ってる印象が強くて―個人の問題意識で、個人として行動してるだけじゃないかって批判もあるのかなと思うけど。社会学にとって研究者の中立性ってどういう風に考えられてるんですか?
ケイン そうですね、そこはすごくホットな話題で。ものすごくひらたくいうと、昔のシカゴ学派の社会学って「社会病理学」的な部分があるものでした。移民がいます、治安が悪いです、はい「社会の病理」ですね「問題」ですね、って部分。でもそれって、そうではない「正常」なものを想定しているからこそじゃないですか。
でも現代の社会学者って、そうした「正しさ」をスッと持ち込まないんですよ。たとえば、岸政彦さんが言うように、一見すると「なんでそんなことするんやろう」って思ってしまうような他者であっても、いったんは「他者の合理性」をどうやって理解しようかって試みるのですね。
だから「客観性」と言った時の「客観性」が、他者の合理性をどれだけ記述できているかとか、そこ次第だと思うんですよね。
司会 「なんでなんだろう?」って思うときには、自分っていう基準はいつもありますよね。
ケイン そうなんです。高みから「客観的な基準ってこうですよね」みたいな立場って、もう失効しているんじゃないかなと。もちろん踏み外しちゃいけないところもあるけど。
阿部 なるほど。たとえば社会を研究している学者――社会学者が自分の研究対象のコミュニティの一部であったりする時、たとえばアイルランド系の人がアイルランド系のコミュニティを研究することに関して、直接的ではないにせよ、それって研究として質が落ちるんじゃないかっていう批判は?
ケイン ああ、ありますよ。
阿部 「当事者研究」って馬鹿にしたようなニュアンスで言われる感じ?
ケイン はい。まさに僕は「当事者研究」って言われがちで。ハーフです、ハーフの人にお話聞いてます、ハーフのコミュニティに入ってハーフの研究してます、って自己紹介すると「あ、当事者研究なんですね」って(笑)。なあなあの関係でやってるんじゃないの?みたいなニュアンスで。
でも、じゃあ自分と関係ない人たちの調査をすれば客観的だって証拠はどこにあるのって、いつも言い返しますね。統計をかませれば客観的って考えてる謎の人もたまにいますけど、その質問紙を作ったのはあなたでしょ?って。
調査協力者との関係性、立場関係、権力関係をどれだけ書き込めるかの方がよほど大切。
阿部 それで言うと、精神医学って観察者自身を記述することについて遅れていて、たとえば症例報告をするときに、医者がどういうタイプの診察をしたかが描かれることはほぼない。
フロイトは「医者は『平等に漂う注意』であれ」なんて言っていたり。そんなこと不可能なのにね。
ケイン ほお~!
阿部 そこでサリヴァンは自分のことを徹底的に『私記』に書くことで、「精神科医だっていろいろあるでしょ?」って煽ったわけなんだけど。現代もまだそこに追いついてないのかなって。
3.「他者」がどれくらい「ハーフ」に映り込むか?
阿部 街にフィールドワークするような社会学で、その街がまわりからどう思われてるかって検討されるんですか?
僕は個々の患者さん—そのなかにある精神病を診ているわけだけど、精神病の中に、自分がまわりからどう思われてるかっていうモチーフがよく出てくるんですよ。
ケイン なるほど。
阿部 たとえば父親から性虐待されてきた女の子だったら、思春期になって、父親の声で幻聴が聞こえたり。あるいは、しんどい地域に生まれ育った人の妄想が、「自分は天皇の弟だ」みたいな形をとったり。
社会学みたいな大きなレベルでもそういうことはあるんですか?
ケイン レッテルを貼られて、それが内面化していくことはありますね。それこそベッカーのラベリング理論とか。押し付けられたステレオタイプの通りになっていってしまう、っていう。そこはサリヴァンが書こうとしているものとすごく近いと思う。
阿部 「よそ者」とされる人にフィールドワークしていて、ケインさんはなにか感じていることとかありますか?僕は精神科医として、そういう人たちには独特の「軽さ」というか、「疎通のよさ」をかんじるんだけども-
ケイン ああ、あります。やっぱ僕が調査している、主に日本語が喋れるハーフの人は、饒舌な人が多いような気がします。僕が相手だからって気もするけど。自分語りがうまい。でもそれは死ぬほど自己紹介やり続けてきたからだと思うんです。
阿部 そうそう、それはあるね。
ケイン うまくならざるを得ない。
阿部 死ぬほど自己紹介しましたよ、僕も。初対面の人に、まだ名前も言ってないのに「なにじん?」って聞かれるもんね。
ケイン そうそう、親のなれそめとか。
阿部 納豆食うか?とかね(笑)
ケイン そうそう、この前インタビューした女の子は、自分がレーダーになったみたいにわかるって。ああ、この人絶対めっちゃ聞いて来るなあ…って。
阿部 そうね。ハーフの子って自己紹介にあまりに慣れてるよね。小学生くらいで、もうオチのある自己紹介ができるとか。普通はできない。
それが高校生になった時の最初の一か月とか、大学生になって最初の一か月とか、所属コミュニティが変わる度に儀式のように100回くらい自己紹介することになる。
ケイン 通過儀礼が四月にある。くりかえしくりかえし。
阿部 ー女の子はハーフですって自己紹介すると、どうしても「モデル」と引き比べられちゃう。それは対人関係のスタート地点としてかなり辛い。当たり前だけど、美人の子も美人でない子もいるんだけど、ハーフって言うと、加藤ローサのくくりに入れられちゃうのね。
ケイン 男子はーーウェンツ瑛士か
阿部 ウエンツ瑛士が最初の頃モデルだったんだけど、途中からお笑いタレントになったよね
ケイン 自虐担当
阿部 あれ、救われた部分があるね。
ケイン 僕もなんですよ。めっちゃ救われた。
阿部 白人の父親を持つハーフで、たどたどしい日本語じゃなくしゃべる男性タレントって、ウェンツ瑛士だけだったね。僕たちが中学生だったころ。
ケイン 『天才てれびくん』ね。
阿部 ウエンツ瑛士がコメンテーターでイケメンでモデルでっていう役回りでいっていたら、僕たちはしんどかったね。
ケイン しんどかったですね。
阿部 でもハーフの女の子たちってやっぱり今もハーフ・イコール・モデルの世界。ハーフの女の子でスベリ芸やる人なんていないからね。
ローラとかベッキーとか、語ってくれればねえ。もうちょっと楽なんだけど。トリンドル玲奈が「幼少期たいへんだったんですよねえ」ってしみじみ語ることはないから。商品化された自己語りはあるだろうけど。
4.「行政的なもの」との関わり
司会 サリヴァンと、行政の関わりというのはどういうところがあったんですか
阿部 サリヴァンという人は1940年代からはアメリカの国務省に登用されて、たとえば徴兵制度の設計なんかを任されてますね。徴兵検査で「同性愛」を不問にすることなんかを通して、「理想的アメリカ青年」像を作り変えていくことをするんですよ。これって国家規模で精神衛生をデザインする、かなりスケールの大きな話だと思いますね。同時にクレバーなやり方でもあるし。
ケイン なるほど
阿部 自分が偉くなったらケインさんは何しますか?
ケイン 難しいなあ。う~ん……でもやっぱ教育に手を入れるかなあ
あ、図書室。移民の本入れる。『ズッコケ三人組』(那須正幹 ポプラ社)の横に海外の童話――海外ないし日本国内に移民がいるよっていうのを書いた本を入れます。予算は通りそうでしょう?
阿部 徴兵制度いじるより簡単でしょうね。
ケイン それ結構やりたいんですよ。実は『ふれる社会学』(北樹出版, 2019年)も一応は大学教科書として出版したんですけど、ぜひ高校の図書室に入れて欲しい。読みやすくしたのも、それが理由。
そこからかなって。大人の説得も同時にやらないとダメなんですけど、まずはそこかなあ。しれっとそこにあるのが普通をつくっていく。
阿部 すっごい意地悪なことを言うと…ケインさんがやろうとしてることは総理大臣になった時に自分の伝記を小学校に配るのに近い。
ケイン はははは!そうだね!うん、そう思う、そう思う。
阿部 それってスターリンなんかもそうなんだけど、あの人はいわゆるロシア人じゃないですよね。グルジア出身で。きれいなロシア語がしゃべれない。それで自分を偶像化した。
ケイン …もの哀しさなんですよ。「普通」に惹かれてしまっているからこそ、普通の外縁――普通を疑い続けている人が権力を持つと、そのなかに自分たちを入れ込もうとする、もの哀しさ。僕がやろうとしていることも、そうかもしれない。
司会 阿部先生だったら何しますか?
阿部 僕はねえ、最初たぶん本を入れようとか同じようなこと思ったんだけど、それだと面白くないなあって思って。
一同 笑
阿部 セルフツッコミが入ったんですよ。僕がさっき意地悪を言ったじゃないですか。この意地悪なツッコミは最初自分に向いていて、一方で「普通」概念が危ういよねっていいながら、でも自分では「普通」をこっちに引き寄せるのかよって。
たぶん健康な成長っていいながら、それぞれ違うものを思い描いているってことなんだろうけど。それぞれ、自分に都合のいいように。
ケイン 普通ってなんやねん!って言いながら、もう片方の手で「普通」の外縁を広げようとすることが大事だと思います。
阿部 LGBTをめぐる社会運動なんかは、その点がすごくうまく行ってますね。「ハーフ」をめぐる運動も、いろんな社会運動からそれぞれ良いところを吸収しないと行けないと思う。繰り返されてきた失敗をくりかえしては行けないから。
質疑応答
会場から①
(どのような思いがあって、いまこの本を翻訳しましたか?)
阿部 僕は自分と似たような立場の患者さん—―特にハーフの子どもたちを診ることが多いんだけど……基本的には「僕もそうだった」って話をするんですよね。
僕もそうだった。あなたの持ってる悩みにはあなたにしかない部分もあるんだけど、でも基本的には私たちは人間で、基本的には私たちは似たような生活体験をして、九割九分のところは同じような人生を歩む。言葉をしゃべるようになって、ごはんを食べて、寝る。残りの1%の部分ですごく悩んだりするんだけど、その1%に限って言っても、今あなたの目の前の精神科医である僕は似たような体験をしているし、僕も親からは似たような話を聞いた。だから苦しいけれども、それは一回きりの切り離されたものではないよってことを伝える。
100年前のアメリカで、やっぱり同じ種類の孤独に晒された人がいたんだよってのは、この本を日本語に訳そうと思ったきっかけの一つですね。
ケイン オレの問題、ワタシの問題っていうのを、あんまり自分1人だけの問題って考えてる学生と話してると、心配になりますね。そういうとき、「オレは乗り越えたぜ」みたいなことはよぉ言わんし、それはたぶん社会的資源がたまたま僕にあったからで。でもたぶん…なんやろな…みんな引っかかってるワナみたいなものがポコポコあって、「それにはもう名前があるねん」ぐらいのことを伝えられたらと思う。僕たちに専門家としてできるのは多分それくらい。
阿部 ワナには名前がついてるんだよね。で、だいたい場所がわかってるんだよね。
ケイン で、名前がついてなかったら、俺たちが名前をつけるわけですよね。その連続が学問だと思うので。学問いらないとか、学問は役に立たないなんて言ってる人はたぶんそれを言える立場にいるってだけで。文系の学問なんの役に立つんですかみたいなのは、「役に立つ」と言わずに済んだあなたの話だろって思ってて。
会場から②
(自分はクルド人の子どもたちと関わっている。子どもたちが話をしてくれないこともある。話を始めるきっかけについて、どんな風に思うか?)
ケイン 僕はよさこいですね。アイデンティティを問わずに、でも一緒にいられる状況設定が、僕はよさこいの中に見つけられた。それがバンドの人もいれば、文学の人もいると思う。自己開示をせずに済む環境。
阿部 僕はね…僕は診察室っていうのがフィールドなんですよ。診察室には何もない。広くないところ、真っ白で、僕も白衣着てるし。お話する以外には他にもすることがない。
そこに何か新しいワークを導入することはできなくて。初対面の子と長くても30分、何もない部屋で話をするっていうのが僕のフィールドなんだよね。
話せない子ももちろんいます。話せない人を話させるってことを僕はやらなくて、学校の話降ると、喋れない、寝れてるかどうかは、喋れる。家族の話はできるけど父親の話は、できない、そういうところからパーツを集めて、問題の所在にアタリをつけるかな。
これはテクニカルな話だけれども、「しゃべれない人にしゃべらせる」ってのは精神科医がとるべき方法論ではないと僕は思ってるの。喋れないことについての解釈はするとしてもね。
司会 今日は皆さん、ありがとうございました。
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