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  • 執筆者の写真HafuTalkProjectTeam

うつ病と診断された私が「ハーフ顔」という表現に抗議をした理由(わけ)

更新日:2019年4月28日



今回は、石井マヤさんと小澤ナザニンさん(ペンネーム)より寄稿いただいたコラムです。

石井さんと小澤さんは、とある出版社の女性誌に掲載されていた「ハーフ顔」という表現に抗議をし、その経緯についてHAFU TALK編集部に連絡をくださいました。その後、その抗議に至る過程について石井さんや小澤さん自身の経験も合わせてコラムをご執筆していただくこととなりました。彼女たちはどのような思いでこの抗議に至ったのでしょうか。ぜひご一読ください。

※この文章にはハーフという理由で受けた具体的な差別体験が書かれています。フラッシュバック等を引き起こす可能性がありますので、心当たりがある方は注意して下さい。





***




「ハーフ」と聞いてどのような顔を思い浮かべますか?


人気のモデルや著名なアスリート、売り出し中の俳優…こういった有名人の事を連想する方が多いかもしれません。


では、彼らに共通するものは何でしょうか。

高い鼻や二重まぶた、明るい肌のトーンでしょうか?確かにこれらは「ハーフ」というものと関連づけられがちですが、外見は各個人が持つ特徴の一つにしか過ぎません。


また、これらの要素を持たないハーフも多く存在します。

身体的特徴がハーフを定義づけるのではなく、個人の文化的背景や経験がハーフとしてのアイデンティティをつくります。


そして、彼らの中には、「ハーフ」ではなくダブルやミックスなど別の呼称を好む人や、単にハーフである事を意識させられたくない人、あるいはハーフであることがアイデンティティーのほんの一部でしかないと感じている為、ハーフとも呼ばれたくない人がいます。

ハーフであることを除けば、全員がそれぞれに違う個人なのです。

そもそも、容姿が「ハーフ顔」に当てはまらないハーフも、ハーフなのです。肌の色や髪・目の色が深いハーフ、日韓や日中、日蒙ハーフなどはどうでしょう?ハーフとして見られたくないハーフだって存在します。


他者からどう見えているかに関わらず、彼らは現実に名前と顔を持って生きています。ただハーフとして生まれてきただけである彼らを、この言葉たった一つで説明できるとは思えません。「ハーフの顔」なる画一的なものは存在しないのです。

そこにあるのはそれぞれの個性豊かな身体と人生です。



今回、私達はそれぞれ電話と手紙を通して出版社の編集部に「メイク記事においてハーフ顔美女という表現があったが、ハーフ当事者としてこのような言葉を使うのはやめて欲しい」という旨をお伝えしました。


抗議の内容としては主に、その表現がハーフの外見に対するステレオタイプを強化しているだけでなく、「ハーフ」が白人と日本人の間に生まれた人間のみを差す言葉であるかのような意図が感じられる事、白人であっても地域などにより特徴が異なる事、誰も自ら選んでそのような見た目で生まれたわけではない事ーつまり、理想の「ハーフ顔」を作り上げる事でそれに当てはまらないハーフの人々を傷つけ、コンプレックスを生み出しているという事を指摘しました。


電話では記事を担当された編集部の方と直接お話しし、とても丁寧で誠意のある謝罪の言葉をいただきました。その方は、「深く考える事なく今までの言葉遣いで記事にしてしまったが、配慮の足りない表現であった。多様性と時代の変化は認識しており、様々なルーツを持つ方を傷つけるような事はしたくない。抗議の電話に感謝している。」とおっしゃっていました。そして抗議から二日後、該当記事のオンライン版からは「ハーフ」という文字が削除されていました。


編集部の真摯な対応と素早い行動力のおかげでとても実りのある嬉しい結果となりました。担当者の方には感謝の気持ちでいっぱいです。


私達はこれからもメディアや広告における「ハーフ顔」「ハーフ風」といった表現に対して、抗議の行動を起こしていこうと思っています。最近は「多様性」という言葉があちこちで聞かれるようになりましたが、日本では既に多様な見た目とそれぞれに異なる国・文化のバックボーンを持つ人間がたくさん暮らしているという事実への認識が不十分に感じます。

今回抗議を行った私達自身も、それぞれ別の国から来た親を持ち、別々の文化に触れ、別の言語を話す親と関わりながら、各々に異なる体験をしてきました。



***



私、石井マヤはポーランド人の母親と日本人の父親の間に生まれた「ハーフ」です。今年で28歳になります。小学校の頃、父親の仕事により海外に二年間住んでいた以外はずっと日本で暮らしてきました。



0歳の頃の石井さん

小学校は近所の公立学校、中学と高校は県内の中高一貫校に通い、東京都内の私立大学を卒業しました。一人っ子という事もあり、家族や親戚には可愛がられ、甘やかされて育ちました。小さい頃から体が大きいのがコンプレックスでしたが、ハーフという事で特に何か言われたりいじめられた経験もなく、自分の外見に対しては「まぁこんなものか」といった感じで渋々納得していました。



7歳の頃の石井さん


私が十代の頃、ファッション雑誌やテレビ番組では「ハーフモデル」が大人気で、スタイルが良くゴージャスな顔立ちの彼女達はみんなの憧れの的でした。自分と彼女達の違いに落胆しつつも、「ハーフモデル」は全員別世界の人間であり、自分には関係ないと思う事でやり過ごしました。


大学に入ると、新しい出会いが増え、自己紹介をする機会が多くなりました。すると突然私は「ハーフの人」となり、ハーフの誰々に似ている、ハーフだから○○っぽいなど、自分とは無関係だと思っていた「ハーフ芸能人」と比べられるようになりました。ただ名前が似ていたり、同じ髪型というだけで、自分が彼女達と同一視される事にはとても戸惑いました。寝不足で目が腫れぼったい日には「今日はいつもよりハーフっぽいね」と言われる事もありました。


私は段々、別世界の人間だと思っていた「ハーフモデル」に近づきたい、彼女達のような顔になりたいと思うようになりました。そして、某アナウンサーに似ていると言われた時、私はいよいよ絶望してしまいました。

全然似ていないのに…!彼女と私にはハーフというぐらいしか共通点が無いのに…!彼女がハーフの正解なんだ…!私も同じ顔にならないと…!


そのアナウンサーの方の丸くて大きいパッチリとした二重の目に近づく為、私はあらゆる化粧品を試しました。アイテープや二重のり、絆創膏など、とにかく目を幅の広い二重にしなければならない。そうしないと彼女のような顔にはなれない。毎日毎日彼女の画像と鏡に映る自分を見比べながら、瞼の皮膚をひっぱったりくっつけたりしていました。例え思い通りの仕上がりになったとしても、いつそれが取れて元に戻るかわかりません。バレてはいけない。「ハーフ」なのに二重用化粧品を使っている自分が恥ずかしいというのもあり、次第に人と会うのが億劫になりました。そのうち大学の授業にも出なくなりました。



20歳の頃の石井さん



その後、私はうつ病と診断されました。醜形恐怖症(自分の身体の美醜に対して病的に執着してしまい、日常生活が困難になる強迫症の一種)が主な原因でした。


治療の一環として、埋没法という方法で元々の奥二重に戻っていた瞼に糸を通し、目を二重にする手術をしました。美容外科での施術だったので保険は効かず、ちょっとした海外旅行に行けるような額のお金を、自費で払いました。結果として、数ヶ月後には元のような目に戻ってしまい、見た目はあまり変わりませんでした。


うつ病の治療は今も継続中です。発症をしてから今年で七年目になります。


私は自分を被害者だと思いませんし、「周囲が私を醜いと思わせた!」と社会を糾弾するつもりもありません。細かい経験や環境の変化が少しずつ少しずつ積み重なった結果、私は自分をひどく追い込んでしまったのです。しかし、世間におけるステレオタイプ化されたハーフ像によって私が苦しんだのも事実です。多様性が見直されている現在、あからさまに「ハーフ」を謳うキャッチコピーや広告は少なくなりましたが、今でも私は「ハーフ顔」「ハーフ風」といった言葉を見かける度に胸がチクっと痛くなります。一度内面化した価値観を覆すのはとても難しいです。


「ハーフのような外見」という表現は様々な人を排除し、傷つけます。先日、大手出版社の女性誌にて「ハーフ顔」をレクチャーするページを見つけた時、私はこれ以上ハーフという理由で自分の見た目にコンプレックスを持つ人が出て欲しくない、画一的なハーフ像により振り回される人をなくしたい、そう思い編集部に抗議をしました。



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私、小澤ナザニンの父はイランから30年前に日本に移住してきました。



2歳の頃の小澤さん


私の母は日本人ですが、彼女もまた英語、スペイン語、ペルシャ語も話すマルチリンガルです。小学校に上がるまでは日本語とペルシャ語の両方を話し、家では英語の曲も流れていて、日本とイランの家族と過ごしてきたため、私自身は家族の中でも複数言語を話しながら暮らすのが普通なのだと思って生きてたように思います。



5歳の頃の小澤さん


小学校入学後から何となく、お前は我々とは違うのだという旨を同級生達から言われ始めた記憶があります。明確に「お前がハーフだから気に入らない」、とまでは言われたことがありませんが、持って生まれたカールヘアーも、真っ黒でない髪色も、比較的大きかった眉や鼻も、体毛の長さや濃さもよくからかわれてきました。ある時は公園で同じくハーフの友人達と遊んで居たところに中年男性がやってきて、「ガイジン」がどうだの出ていけだのと叫びながら追いかけてきたこともありました。


髪に縮毛矯正をかけて、眉毛を抜いて、コンシーラーで目の周囲の影を隠して、眉毛と目の間がなるべく離れて見えるように化粧をして、典型的日本人に見えるために努力し続けました。馬鹿らしい話のように思われるかも知れませんが、私にとってはこれを書いている間にも泣くのを堪えなければならないほど、孤独と苦痛と屈辱にまみれた思春期でした。私にとって化粧とは最初、自分の顔の皮を偽ることでした。私にはこの社会が、そうでもしなければ永遠に私を認めない場所に見えていました。


まつ毛が長いとか、目が大きいとか、そう言われたことは何の助けにもなりません。たったそれだけのためにクラスの前で、私は髪を染めていませんがみんなを困らせてすみませんでした、と言う羽目になるのであれば、そんなものは持っていない方が良かったことでしょう。


悪意があったわけじゃないだろうし、なんて今更私に言わないでください。それは私が自らを諦めさせるために、あるいはハーフ同士でお互いを慰めるために言い聞かせてきた言葉です。しかしもう我慢の限界なのです、言い訳はもうお互いやめにしましょう。

相手に悪意がないのだから、私たちはこれからも殴られ続けるべきなのですか。私の次の世代にもそうやって同じことを言い続けて、私たちは何もしないまま彼らが殴られるのを黙って見ているべきだと言うのですか。今日生まれてきたハーフが二十年後もまだ同じ目に遭うとして、我々はなんと情けないのかと思いはしませんか。


私はマヤさんと同世代であるため、十代も後半に入ったあたりで私も「ハーフ」という言葉をよく見かけるようになりました。ハーフの中には、この頃に自分に対する扱いが良くなったと前向きに捉えている人たちも居ます。それもまた事実でありましょう。私も、そうやって前向きに考えることはできたでしょう。しかし当時の私にとっては心が上向くような嬉しいことよりも、苦痛に思った記憶の方が重く私の頭の中にのしかかっていました。


私には妹が一人います。彼女は私よりも見た目が「ハーフ」らしいのです。お前よりもお前の妹の方が可愛い、とも何度か言われてきました。私はずっと妹になりたいと思ってきました。小さい顔、長い手足、細い胴、深い彫り、彼女の持つもの全てが羨ましかった。ハーフという言葉に付随する物を全て持っていたから。イランのいとこ達が、お前は日本人のようだね、と言うたびに、私は自分の半分を否定されているようで悔しかった。自分の妹と私自身を比較しては、お前は日本人にもなれずイラン人にもなれないのだ、お前の居場所なんてどこにもないし誰もお前なんて欲しくないのだ、と言われているようでした。痩せれば少しでも妹に近づけるかとも思いましたが、ただそのために摂食障害に7年間苦しみました。


ハーフという言葉は、誰かにとっては彼らを説明する言葉であるでしょう。どんなものであれ、自分を説明する、自分がどこに属しているのか明確に示せる言葉は必要です。その単語さえあれば、自分はここにいるのだと感じられます。それがたった数文字から成る1単語であろうとも。言葉にはそれほどの力があります。


一方で、言葉にはもっとも多くの人に当てはまる正確な定義がない限り負の力も付随することになります。この「ハーフ」と言う単語が少なくとも私が持つものを説明する単語などでは最初からなかったのだと理解した時に、またあの声が聞こえて来るのです。お前の居場所なんてどこにもないし、誰もお前なんて欲しくないのだ、と。


今度は「ハーフ」らしく見せるための努力が必要になりました。自分をその単語の中に押し込める努力です。そうしていた頃、ほんの数年前ですが、ある日妹は私に言いました。ずっとナザニンの顔になりたかった、ナザニンの方が美人、骸骨とか不健康そうだとか言われて嫌だった、と。


私の妹であり別のハーフ個人である彼女すらも、私からすれば全てを持っていると思っていた彼女ですらも救われてはいなかったと知ったこの時に、私はいつまでも一人で鬱ぎ込んで泣き言は言っていられないのだ、と感じはじめました。この言葉の外に出て、この誰も幸せにならない競争から私がまず降りなければ、と。


私はハーフであるというだけで、自らが何者であるのかを決めるために長く辛い旅をしなければなりませんでした。悩み苦しむことだらけのこの辛い旅の最後にようやく自分を見つけたことが、その自分を誇れるようになったことこそが、私がハーフとして生まれてきたことを感謝することの理由です。「純粋な日本人」の目線からでも「社会」なんてものからでもなく、自分の見た目や外から見た印象に怯えることもなく、自らの視界から自らの世界を見て自らの価値を自らで決められると学んだことが、私にとっては一番大きかったのだと思います。



20代の小澤さん


そもそも、このハーフという言葉が全てのハーフを救ったとは私には思えません。この言葉が出来てから、「英語できるの?」「あんまりハーフっぽくないね」「イラン語話してよ」「いつイランに帰るの?」と言われることが私自身の体感として増えたためです。


最初からハーフであることすら言及されたくない人達にとっても嫌な質問が増えたことでしょうし、この質問を避けるために自らがハーフであることを隠し始めた人もいるでしょう。

自分がハーフであることが自身の人格形成に関わっていない人達にとってもいい迷惑であろうと思いますし、何より失礼です。


この言葉が誕生した後、私たちは異なる文化的背景を持っている個人であると認知される代わりに、ただハーフという看板を首に無理やりかけられ始めただけだと言ってもいいのではないでしょうか。


イランに行けば日本人みたいだと言われ、日本にいてもハーフっぽくないねとも言われる一方で、街を歩けば「ガイジンカード」を出せと言われ、銀行では差し出した日本のパスポートが偽造ではないかと疑われ、デパートに行けば英語を話す販売員さんをあてがわれ、すれ違えばガイジン!と言われ、そうやって過ごしてきました。


私はハーフを差別しないよ、俺はハーフの子とつき合ってみたい、というのも、別に嬉しくも何ともありません。それは私はハーフである以前に私であるのに、ハーフという気づけば私の首にかかっていた看板しか見てくれてはいないことの証左なのですから。


このハーフという言葉は、ハーフによってハーフのために作られた言葉ではないように思います。それはハーフと言う言葉に、あまりにも単純で画一的な、いうなれば架空のハーフの姿が付随していると感じられるからです。この言葉の中にいる限り私は人間ではなく、ハーフでしかないのだと思うと、ただ地面を見つめる以外には何もしたくないような気分になります。


この「ハーフ顔」という言葉は、かつて私の首にもかかっていた、私の意志では外すこともできないような名札を思い起こさせます。私は、私以外のハーフと呼ばれる人達がその看板を勝手に首にかけられたり、ハーフらしくないからとその看板を指差して嘲笑されたりするような目に遭って欲しくはありません。そのため、この言葉について取り上げ抗議しました。今度はハーフによって、このハーフと言う言葉が再定義されるべきであろうと思っています。



***



私達がそれぞれ書いたように、「ハーフ」という言葉には負の印象もつきまといます。ただハーフとして生まれてきただけである人を、この言葉が傷つける可能性は大いにあります。というのも、この言葉が受け入れられる背景にあるのは無自覚かつ非常に深刻な人種差別です。


私達はただハーフであるということ以外に共通点を持ちません。ハーフ個人の数だけ違う体験があり、また触れてきた文化やその度合いも異なります。私達ですら、日本語や英語では可能でも、ポーランド語やペルシャ語ではお互いの意思を伝えることが出来ません。また私達がそれぞれポーランドやイランと日本のハーフ達と話したとしても、必ずどこかでお互いの考えに違いが出るでしょう。


ハーフといえど、例えば、東アジア、東南アジア、南アジア、中東、北アフリカ、中央アフリカ、中米、南米…これらは全く別の地域であり、外見はもとより当然文化も言語も全く異なります。我々はそれほど多様であるにも関わらず、当事者以外にとっては「ハーフ=彫りが深く目鼻立ちがはっきりしていて、色素が薄い外見の人間」という程度の認識である場合が多いです。考えてみてください。ハーフの大半は、日本人としての自覚を持っていながらも、同じ日本人から人種差別を受けているのです。


ハーフとして生きる事には、大なり小なり苦痛が伴います。私は全く気にしないと言うハーフもいますし、私達が見てきたものとは比較にならないほど残酷な目に遭ってきたハーフもいるでしょう。ここまで生きてはこられなかったハーフも存在します。ハーフである以前の、一人の人間としての人格や感情を無視して、「ハーフ顔」という言葉で一括りにするなんて都合が良すぎると思いませんか。


また、なぜハーフには多くの場合東アジアの人が持っていない身体的特徴が求められるのでしょう。日本で生きるハーフの多くは東アジア人でもありますし、自分の親の国に行けば東アジアの人間としてしか認識されなくなることもあります。そして、それらの特徴を持たない人々は醜いのでしょうか?ハーフでない人々にとって、自分ではない何者かになることを強制するような「ハーフ顔」という言葉で、誰が幸せになるのでしょう?彼らは東アジア人的容姿だから、美しくないのですか?


このような価値観に留まるか、抜け出すかは個人の自由です。強制は出来ません。しかし、「ハーフ顔」という言葉が存在しない世界では、ハーフだけでなくあらゆる人間が偏った美的価値観から解放され、もっと多様で豊かな美しさを謳歌出来るのではないでしょうか。


全てを今すぐ変える事は出来なくても、小さな変化の積み重ねによって少しづつ、しかし確実にこの現状を変えていく事は可能です。


日本において、「ハーフ」という表現はメイクやカラーコンタクト、ヘアカラーの種類と効果に関する文脈で多用されています。しかし、これらの言葉は全て他の言い方に置き換える事が可能です。クレヨンや色鉛筆、絵の具の「はだいろ」が「うすだいだい」に変更されたように、ハーフという単語を使わなくてもイメージを説明する事は難しくありません。


例えば「ハーフ風メイク」というのは、多くの場合明るい色使いで色素を薄く見せ柔らかさを演出するメイク、もしくはハイライトやシェーディングで骨格の凹凸を強調するメイクの事を指しています。ならば、そのままそのように表記すれば良いのです。「ハーフメイク」ではなく、「色素を薄く見せるメイク」「立体感に重きを置いたメイク」と書けば十分伝わります。また「ハーフ系カラーコンタクト」は「明るいブラウン」「グレー」「ヘーゼル」、「ハーフ系ヘアカラー」は「アッシュブラウン」「グレーベージュ」など、具体的な色名で表記すれば済む話です。金髪や青い色の目を「白人」と言わないように、特定の色みを「ハーフ」と呼ぶ必要はありません。顔立ちに関しても同様です。


この文章を最後まで読んで下さったあなたにお願いがあります。もし今後「ハーフ顔」や「ハーフ風」などといった表現を見かけた際には、私達と一緒に声を上げてみませんか?何かに対して抗議をし、自分の意見を伝える事はとても勇気のいる行為です。お金をもらえるわけでもありませんし、時間もかかります。声を上げたところで、聞いてもらえず無下にされ、こちらが傷つくだけで終わってしまう可能性もあります。


けれども、そういった個人の声一つ一つが積み重なり大きな波となっていけば、世間も変わらざるを得ません。私達が今回抗議をした女性誌の編集部では、今後特定の外見やメイク効果を表すのに「ハーフ」という言葉は使われないでしょう。(少なくとも、使われないであろうと信じています。)


言ったところで、伝わらないかもしれません。しかし、言わなければ伝わりません。


「ハーフ」と一言でいっても、見た目も中身も多種多様だよ、それぞれに個性の異なる一人の人間なんだよ、こういった声をもっともっと日本の社会に響かせたいです。その為には、より多くの人の力が必要だと感じます。もちろん、当事者であるかどうかは関係ありません。あなたの家族や友人、パートナーや職場の同僚…日本とそれ以外の国、文化にルーツを持つ人はたくさんいると思います。共に行動を起こして、「ハーフ」の豊かさ・幅広さを訴えていこうではありませんか。



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(2019/4/28追記)

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メディアや広告における「ハーフ/ダブル/ミックス/外国ルーツ」「外国人」「日本人」のステレオタイプ化に対する抗議の記録 +ハーフがする本物のハーフメイクの話、平均的「じゃない」コスメ情報など… 美容やメイクのあれこれ by ナザニン&マヤ


credit

コラム執筆:石井マヤ、小澤ナザニン

冒頭書出し:HAFU TALK編集部

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